Hani Dallah Ali展
5月にあった出来事も報告したいし、現在の政治状況諸々気持ちが落ち着かないのですが、下記の件で書く衝動が抑えきれないため、先だって江古田で開催されていた、6月10日(土)Hani Dallah Ali展についての覚え書き。
Hani Dallah Aliさんはイラク出身の画家ですが、イラク戦争後の情勢悪化により、現在はヨルダンに活動の基盤を移し、各地で個展を開催しているとのことです。
パンフレットによれば、今回は3度めの来日となり、「ラヒール・ワタン〜祖国、我を去りて」という新シリーズを携えてのツアーとなっているとのこと。
実はAliさんの個展については、1回目については東京で見たことがあります。その頃の作品がHPに掲載されているようですが、極めて抽象的だった10年前の絵に比べ、現在の画風は中々に変化しています。
元々今回の個展は、PEACE ONの相澤恭行さん(ヤッチ)の伝手で知りました。
相澤恭行さんは、2003年イラク戦争の際に行われた「人間の盾」を機に、日本各地での戦争の実態に関する講演、イラクの子ども達へのスクールバスの提供といった慈善事業、さらにイラク現代アートの展覧会の開催といった、様々な文化・平和活動を行ってきた人です。
個人的な話ですが、ちょうど2004年の時期、僕がまだ大学1年生の頃に母校でヤッチの講演会が行われていて、それがきっかけでちょくちょく彼の自宅に遊びに行かせてもらいました。今思うと図々しいくらい、精神的に不安定だった僕を色々な場面で支えてくれました。
あの当時も彼の周りには反戦自衛官とか音楽家とか、軍事ジャーナリストとか絵画アーティストとか、様々な人種が集まっており、当時の平和活動に一定の影響力を与えていました。振り返ってみても極めて時代に対して鋭敏な感覚を持った、行動力とカリスマ性のある人でした。
大学を卒業してからはてんで連絡が途絶えてしまったのですが、今回意識的にヤッチと会う機会を作りたいと図っていたところ、Hani Dallah Aliさんの個展開催という素晴らしいタイミングで東京に来られると聞き、何とか江古田に向かいました(土日休みが取りづらい職場なもので、割と運が良かった方なのです)。
ヤッチに会うというのも目的でしたが、Aliさんの絵画と再会することも、今の僕には何か意味があるような気がしていました。
何でこんな話をするのか。1月の飲み会で労働組合の先輩から「ジェネッタくん、よくわかった。君には哲学がないのだ。」と言われたことが発端でしょうか。当初は何を言われているのかわからなかったのですが、すぐに理解しました。
要するに、僕は時代に怯えているのです。安倍政治という巨大なゴジラに震えて身動きがとれなくなっている。
政治に対しては一定の関心を持っていた方ではあると思うのですが、自分の仕事や趣味関心を一切犠牲にしてまでの何かを突き詰める、という覚悟はない。結局のところノンポリに毛の生えた程度だった僕の人生に彗星を突き落としたのが安倍政権でした。
戦前の軍国主義を礼賛する勢力の筆頭として安倍晋三は多いに警戒していましたが、想像以上の早いスピードでのメディア統制、憲法に抵触する法案の説明不足と強引な可決、アベノミクスによる格差と生活破壊、権力の私物化、何より中国・韓国市民への敵対的パフォーマンスによる大衆感情の鼓舞と分断、どれをとっても社会を息苦しくする方向に向かっています。
こうしたことへの周囲の無関心も相まって、不安感・恐怖心は毎日続き、遠くへ逃げたいとか、現実的でない方向へ感情が揺さぶられそうになっていました。
そんな中、たまたま4月に東京ジャーミィに立ち寄りました。イスタンブールのアヤソフィアやブルーモスクに行ったこともあるくらい、もともと僕はアジアとヨーロッパの中継点とされるトルコが好きで、とりわけ絢爛華麗なオスマン建築に憧れがあったりしました。
場所は知っていたのですが、中々行く機会をつかめず、友人を誘って日本語のガイドがつく時間帯に立ち寄ったのですが、当地の出版・広報担当の下山茂氏が熱弁しながらイスラム教について解説をしていただき、ちょっと立ち寄って帰るつもりだったものが、すっかり17時近くまで議論をしあっていました。
印象深かった場面は色々あるのですが、中でも礼拝の時間が壮観でした。
ムアッジンが礼拝を告げ、続々とムスリムがジャーミィに集うのですが、それが様々な人種・民族で構成されていることは一目見てわかります。やはりトルコ系やアラブ系の風貌が多いですが、インドネシアでしょうか、東南アジア系の方も加わり、最後は下山氏も礼拝に加わります。
見知らぬものとも肌を寄せ合い、幽寂な空気の中で一人アッラーを称える声がこだまする。終わった時は皆活き活きとした表情で仕事場に戻るという、一際荘厳かつオリエンタルな情景でした。
世界都市である東京だからこそ、考えてみれば当たり前の風景がここにあるわけですが、普段の僕の生活では味わえない神聖な体験を、ここ東京で味わうことができたのは貴重でした。
多くの民族・人種も、唯一神アッラーの下には全て平等である、というイスラム教の精神を初めて垣間見たと同時に、世界宗教として14億人もの人々を束ねる奥深さや歴史を感じるきっかけにもなった気がしました。
下山氏は「人類の歴史の中で危機に追い込まれた時、絶望に瀕した時が幾度となくあったと思う。その時に人は、”神”の存在を知ったのだ」と言っていましたが(間違ってたらごめんなさい)、大げさでも何でもなく、これからの日本社会を間違わずに生きていくためには、神のような”大いなる意思”を信じる力、ないし哲学を持たねばならないだろうと、強く感じたのです。
話はそれましたがAli展、ここでもイスラムの息吹を感じれるのではないかと、密かに楽しみにしていましたが、結果としてそうした宗教的な観念は特に意識することなく、10年前とは違った世界観に魅入られました。基本的には現代アートという範疇で語られるような抽象的かつ印象的な色彩の絵画が連なっているのですが、目を閉じた女性、円形の木板、りんごや手、二対の人物、共通したモチーフが掲げられ、想像力を掻き立てる作品群となっていました。
当日はAliさんとヤッチによる講演会も催されており、改めてそのモチーフに込められた温かく、深淵なメッセージを知るのでした。
Aliさんは、家族とともにイラクからヨルダンに避難してから、幾度となくワタン(故郷)に戻る機会を伺っていたのですが、既に自分が過ごしたワタンは戦争によって粉々に砕かれ、消えてしまった。いわば「私がワタンから去ったのではない。ワタンが私から去っていったのだ」と。
絶望的な状況の中で、アーティストとして生きるAliさんが見つけたテーマが「心の中のワタン」でした。円形の木板は、”ホブズ”という、窯焼きのパンであり、イラクの食文化の中心となるもの。女性は、ホブズを毎日焼く、私達を育ててくれた母であり、平和と命の象徴となるもの。りんごや二対の人物は”原罪を背負ったアダムとイブ” etc・・・いくつものメッセージがハーモニーとなって絡み合い、絶妙な世界を形成していました。
僕の拙い文章では、とてもAliさんの人間としての”深さ””熱情”を伝えることはできないのだけれども、一ついえるのは、彼の作品群が極めて普遍性をもったものだということです。ワタンから引き裂かれたのはAliさんだけではない。中東だけでいってもパレスチナやシリアが壊滅し、日本でも震災がありました。また、具体的な戦争や災害による土地の崩壊だけでなく、世界各地で物質的にも、精神的にも故郷を破壊する時代が到来しているのです。
そうした時代の中で、生命の根源を育んだ”ワタン”の存在を世に問い、分断と破壊とは異なる人間的な世界について提起するAliさんの絵画は、多くの人が受け止められるアーティスティックな優しさと可能性に満ちたものでした。
率直に言って、僕は日本の閉塞的な未来へのオルタナティブについて、絵画や音楽といったアートは信頼していませんでした。一面で唯物論者である僕からすれば、やはり政治や社会運動は”理性”の世界であり、社会科学的な見地から批判と提案を重ねて、市民に納得してもらってこそ意味があると、すっかり刷り込まれていたのです。
しかし、最後の最後、真に人間を人間たらしめる感情は、理屈で説明できるものではない。だから人は命をかけてでも絵画を描き、歌を作る歴史を作ったのだと、改めて気付かされたのです。
僕もアートや音楽が大好きです。拙い知識や技術でも仲間と鑑賞したり、一緒に演奏したり、そうした当たり前のことをする時間が実はとても尊いこと、哲学を育むことなのだと、Aliさんに教えられた気がしました。
・・・・・・・と、ここまで大絶賛しているAliさんの作品ですが、残念ながら、今回僕は絵画を購入してません(笑)5月に奮起して一眼カメラを購入してからすっかりお金がなくなり、とても新しい物を購入できる余裕がなかったのです。
単純に言い訳なんですが、次回こういう機会があれば早めにお金貯めて、表玄関に飾りたいですね。うちに来たお客さんがいて、「この絵はなんだ」という話になったら、さっそくAliさんの話をするんです。ただの美術論壇ではない、本質的で、とても意味があることだと思います。
この後はヤッチとウード奏者荻野仁子さんの演奏もありました。これも大変素晴らしく、ヤッチの唄には深いメッセージがあり、僕は恥ずかしげもなく感涙してしまったものですが、まとまらなくなってくるので、気になる所含め、後日別添記載することとします。ではまた。